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毎回ぴったり365文字で文章を書く

夢の中で、誰か好きなイラストレーターが新しい絵を発表していることがあって、それを見て「誰々さんの絵は相変わらず素敵だな」などと思ったりする。目が覚めて、それが夢だったとわかるわけだけど、その「夢の中で見た絵」をそっくりそのまま真似て同じ絵を自分で描いてしまった場合、これは「盗作」に該当するのだろうか。その絵は自分の夢の中で生まれたもので、現実には存在しないものなのだから、もちろん盗作には当たらないだろう。だけど、自分の素直な感覚としては、それはほぼ盗作であるとしか思えないのだ。なぜなら、その絵のアイデアというか、構図や色彩など、普段の(起きてる時の)自分では決して思いつくようなものではないから。過去に見たいろんな絵の情報をうまい具合に脳がサンプリングしミックスするという、脳の自発的な二次創作なのかもしれない。

サイコロを2度振った時同じ目が連続で出る確率は1/6である。2度目は最初と違う目が出る確率は5/6であり、5倍もある。つまり2回サイコロを振れば 2回目は違う目になる可能性の方がかなり高い。確率を計算するまでもなく、感覚的にもごく当然のことではある。▼宝くじの季節になると街頭に宣伝が出るようになる。中には「前回この売り場から二等当選券が出ました」などと書かれているものもある。前回当選が出たのなら今回は同じ店から当選がでる可能性はむしろ低いような気もするし、いやいやその店は「当たりやすい店」なので今回もその店で買うべきだ、という考えもあるのかもしれない。こうした宣伝文句に効果があるのだとしたら、後者のように考える人が多いのだろう。余談だが、昔空襲というものがあった時、爆弾が落ちて出来た穴に逃げ込んだ人が少なくなかったそうだ。

子供なら誰しもいたずらをよくするものだが、大人がやるそれは時になかなか厄介である。かつてニューヨークの近代美術館で初めてヴァン・ゴッホ展が開かれ た時のこと、牛肉を使って人間の耳のようなものを作り上げ、それを青いビロード張りの小箱に納めてゴッホ展の一室のテーブルの上に置き、「ヴィンセント・ ヴァン・ゴッホがみずから切り落として彼の情婦に贈った耳。1884年12月24日」と書かれた説明札を付けておく、といういたずらをした人がいたらし い。この「ゴッホの耳」はたちまち大人気となり、多くの観客が押し寄せいつまでも立ち去ろうとせず、周りに展示された絵画は見向きもされなかったそうだ。▼観客たちの俗物精神をいたずら主は暴きたかったそうだ。事の批評性を評価すべきかただの悪質ないたずらと見るべきか迷う所だが、なかなか痛快なエピソードではある。

雨の日に道を歩く時、なるべく水が跳ねないような歩き方をしたいのだけど、どうもコツがつかめない。まわりを見ていると、跳ねた泥水で足元が濡れている人がいる一方でほとんど汚れの無い人もいる。靴の種類も関係しそうだが、同じような靴でも泥跳ねしてる人としてない人がいるのを見ると、やはり歩き方が問題だ。▼水の跳ねは、靴が地面に着地する時と地面から離れる時に起こる。着地する際の跳ねについてはコントロールがしやすく、かかとから指へ順に体重が移動するよう歩けば水跳ねを抑えることができる。一方、地面から足を話す際はどうもうまく制御できない。内股気味に歩けば上手くいくような気もするが、意識しすぎてもかえって駄目になる。そんなこんなで、雨の日はどう歩けば水跳ねしにくいか色んな歩き方を試してしまうので、結局足元がいつも余計に濡れてしまうのだった。

瞳の色は人種により異なり、そのせいで人種による色の感じ方や色の好みの違いなどが生じているという話がある。しかし、これは間違っている。瞳の色は、物の色の見え方に影響を与えない。▼瞳の色とは正確には光彩の色のことだ。光彩はカメラで言えば絞りに該当し網膜に入る光の量を調節する役目を持ち、光彩は光を通さない。光は瞳孔を通るが、これは人種によらずみんな黒色だ。瞳孔を通った光は網膜に至り、その信号が脳に伝わり光の知覚が生じる。このように、光彩の色は物の見え方には影響しない。▼もし人種による色の好みの違いがあるとするなら、それはおそらく文化的要因によるものだろう。色の分類は言語により異なり、例えばロシア語には日本語の「青」に該当する言葉はない。こうしたことが、各文化における色に対する興味の持たれ方に影響を与えているという事はあり得る。

レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作である『モナ・リザ』の背景には不思議な光景が描かれている。乾燥した大地に岩山という、全く生気を感じさせない荒涼とした世界風景が描かれている。これは『キリストの洗礼』『岩窟の聖母』『聖アンナと聖母子』などレオナルドの他の絵の背景でも同様だ。なぜ彼はどこか異世界を思わせるこのような奇妙な風景を描いたのか。繰り返し描いたということは何か意図があったと思われるが、説明は残されておらず私たちはただ推測するしかない。▼レオナルドは大洪水による世界の破滅という予言を信じており、絵の荒涼とした光景はその大災害を受けた後の世界を描いたものだという説がある。また、地球が進化して現在のようになる前の原始の地球を描いたのだとする考えもある。荒涼とした背景と対照的なモナリザの微笑を前に、絵の謎と魅力は増すばかりだ。

絵の背景となる景色を描く際に、なるべくその景色がどの特定の場所でもないようなものにしたいという場合がある。ところが、例えば街並の背景を描く場合に京都の街を参考にして描いてしまうと、当然のことながらその絵は「京都の絵」という雰囲気が強く出る。あくまで欲しかったのは「街っぽい街」であり、具体的にどの場所でもないような「背景らしい背景」であるのだけど、そうした「どこでもない場所」を描くのは案外に難しい。▼ところで、ブリューゲルは『雪中の狩人』でネーデルランドの村民たちの姿を描いている。厳しい冬の山がこの絵の遠景には描かれているが、平坦なこの地方に実際には山は存在せず、世界観を表すため創作されたものだ。特定の場所ではない風景らしい風景は「世界風景」と呼ばれ、この絵の風景も世界風景の一種だ。この世界風景という考え方は面白いと思う。

賽銭箱は、参詣人が祈願成就などのためお金を奉納するための、神社や寺の前に置かれている箱のことを言う。最近知ったところによると、宗教法人の認可を受けていない一般人が賽銭箱を自宅の前に置いてお金を集めても、違法とはならないそうだ。賽銭箱だけでなく家の前に鳥居を作ろうが門を作ろうが自由で、そこに大義名分は別になくてもかまわないらしい。思想宗教の自由は憲法で認められているので、御神体もどんなものでもかまわない。お金を入れる人はそこにお金をあげるという意思表示での贈与としてそれをしているので、乞食が自分の前にお金を入れてもらうための器を置いているのと同じようなことだそうだ。もっとも、どこかの神の名を勝手に騙ったり、募金の名目でお金を集め私腹を肥やすために使ったりしてしまうのはまずい。その場合は詐欺の疑いを受けることになってしまう。

靴屋で鏡を見ていた時に、うっかり鏡を倒してしまったことがある。直そうと思って倒れた鏡を見下ろした時、そこに映った像を見てクラっときた。まるで床の一部に穴が開いたように見え、その中へと落ちてしまいそうな錯覚がしたからだ。それと同時に、鏡の中にまるで別の空間が広がっているかのような印象を強く受けた。床の下に大きな空間があって、鏡として出来た穴からその中を覗き込んでいるような気分になった。▼『鏡の国のアリス』では、アリスは暖炉の上の鏡を抜けて向こう側の世界へと出て行く。アリスの場合は鏡が霧のように溶け出したが、そんな事が起こらない私たちの世界では洗面台の鏡を見てもその向こうへ行けそうな気はしない。でも、足元に置かれた鏡には「向こうへ行けそうな感じ」を強く受けた。その上にジャンプすれば、そのまま中へ落ちて行けそうな気がしたのだ。

全宇宙を一枚のビニール袋の中に入れる方法を考えたことがある。やり方は超簡単。ビニール袋の内側と外側を裏返す(ひっくり返す)だけ。こうすることで袋の内側だった面が外を向き、内と外の関係が逆転する。さっきまで袋の外側だった領域、つまり全宇宙が、今は袋の「内側」ということになる。つまりこの時、ビニール袋は全宇宙を包んでいるということになる。やった、全宇宙を一枚のビニール袋に閉じ込めることができた!(すこし無理がある?)▼内と外の関係は相補的なもので、境界を挟んだどちら側を内側(あるいは外側)とみなすかは恣意的な取り決めに過ぎない。日本人にとって日本は国の内側だが、外国人から見ればここは外側だ。人は動物園の動物を檻の内側に閉じ込めたつもりでいるが、動物たちからすればむしろ、人間が檻の内側に入っているように見えているかもしれない。

人類と異星人との最初の接触を「ファースト・コンタクト」と呼び、これはSF作品における主要なテーマの1つとなっている。異星人は『未知との遭遇』『E.T.』『地球の静止する日』などでは友好的だったが、『宇宙戦争』や『インデペンデンス・デイ』では凶悪な侵略者だった。実際、異星人は人類に対してどのような態度をとるだろうか。おそらく彼らは、友好的でも敵対的でもなく「全くの無関心」というのが一番ありそうだ。地球まで接近出来るだけのテクノロジーを持つということは、彼らの文明は人類よりはるかに優れている可能性が高い。資源を奪うため地球を襲う必要もなく、人類程度の文明レベルの相手に接触しようなどという関心も持たないだろう。かくして、記念すべき人類のファースト・コンタクトは「相手にただスルーされるだけ」で終わることになるのではないだろうか。

ある人がこんなことを言っていた。ビルの2階から4階に職場が移転して、登らないといけない階段の数も2倍になると思ったら、実は3倍になってしまった、 と。2階に上がるには階段を1度登ればよいが、4階に上がるには3度登らないといけない。確かに3倍だ。落ち付いて考えれば当然のことだが、勘違いするの もわからなくはない。ビルの「5階」に上がろうとして「5回」階段を上ったら、6階に着いてしまったという経験が自分にもあったような気がする。▼1階を 0階と呼ぶことにすれば、こうした問題は無くなる。イギリスでは日本で1階にあたる場所をGround floorと呼び、その一つ上の階を1st floor(1階)と呼んでいる。これはGround fllorを基準=0階とする方式で、これなら5回階段を登れば5階に着くことになり、わかりやすい。

「技巧はうまい方がよろしい」と岸田劉生は書いている。絵を評価する際に、よく技巧ばかりがうますぎるとか、あまり上手すぎて面白みがないとか言って技巧の上手という事をいやしむ考えがあるが、これは間違いだと。技巧がうますぎる絵というのは、たいてい「技巧が目につく絵」であるというだけで、内容が薄いか不足であるために技巧だけが見え透いてしまうのだ。本当にいい絵というのは、技巧において非常に巧妙でありながら、しかし技巧のことなど全く目に入らない。技巧は絵の内容=美を表現するため、絵を生かすためにのみ働き、常に美の後ろに隠れてしまう。曰く「本当にいい絵は、その技巧だけを見ても幻妙なものでありながら、どこをどう描いたというような事は、特にそれを注意してみる以外には、目にうつらない、ただ「美」が、人を撃つ。美が技巧を支配し切っているのだ。」

画家の山口晃さんがNHKの視点・論点で「電信柱の美」について語っていた。時に景観を乱すものとして弾劾されることもある電信柱だが、これは日本の風景に馴染むものではないだろうか、と。電信柱の立ち姿を華道に例えて説明していたのが面白い。まるで彼岸花のようだと写真を見せつつ言っていたが、言われてみれば確かにそう見えてくる。西洋では電線は早くから地中化されていったが日本ではそうはならなかった。冬枯れの木が青空にすっと伸びる様子や蜘蛛の巣が陽に透かされて光る様子など空間の中に線的な要素を見出す観賞力が日本人にはあり、これは線で絵を作って来た日本人ならではのものだろうと。マッスや面でものを見る西洋の文化に電柱はそぐわなかったのかもしれないが、日本の風景の中では電柱の持っている線的な要素は溶け込みやすいものだったのではないだろうか、と。

芸術は何のためにあるのかと聞くと、それは美をあらわすためにあるのだ、といった答えが聞かれる。では、美とはどういうものか。画家の岸田劉生は「『美しい』と『きれい』はちがうのだ」と言っている。確かに、「きれい」の反対語は「汚い」だが、「美しい」には崩れたもの、醜悪なものも含まれるようだ。満開の花は美しいが、枯れ葉や朽ちた木にも美を見出すことができる。画家は時に奇形やグロテスクなものを題材にし、例えば鎌倉時代に描かれた九相詩絵巻は、野ざらしにされた死体が腐敗し朽ちて行く様子を順に9段階で描いている。また「わび・さび」は「劣化したもの」に価値を見出す美意識だ。「きれい」とは、整っていることや無駄のないこと、汚れが無く清潔なさまを意味し、完全性を志向する観念である。しかし、美にとって「不完全」であることは別に問題にはならないのだ

『ワインバーグの文章読本』を読む。自然石構築法という、文章を書くための実践的かつシンプルなアドバイスが書かれていた。基本となる原則はたったこれだけ。1.興味あるテーマについて普段から話題の断片を無数に集めておき、2.断片がある程度溜まったらそれを組み合わせて文章にする。なんて単純。よくある文章法では、まず全体のアウトラインを決めその後で個々の小項目を考えて行くという方法が説かれる。しかし本書の方法ではその反対に手持ちの小項目を積み上げることで文章を完成させることを説く。その方が理にかなっているわけは色々とあるのだけど、その方が身体感覚にマッチしてるということが何より決定的だ。なぜそうかはここの字数では足りないので書けないが。本書は私にとって非常に腑に落ちる内容で、書くこと(描くことにも)への良いヒントを貰うことができた。

誰しも「こんなことができるようになればいいのに」と思っていることが1つや2つはあると思う。自分の場合だと語学とかがそれ。英文をささっと書けるようになりたい。でもそのうち勉強したいと思いつつ、ずっと手を付けられないままでいる。一方で出来るようになったものもある。例えば絵がそれだ。2年ほど前に思いついたようにやり始め、いつの間にか一番の趣味になった。やりたいと思う度合いはどちらも同じくらいだったのに、この差はどこで生まれたのだろう。それはたぶん、具体的な目的があるかどうかだと思う。絵の場合は「今この絵が描きたい」という明確かつ切実な目的があった。語学にはそれが無かった。「興味関心」ではなく「目的」が何かを始めるためには決定的に重要で、ということは、何かを始めたいと思った時は具体的な目的を設定すれば良いのだということがわかる。

小さい頃から絵を描くことは好きだった。良く描く題材は決まっていて、汽車と城と軍艦。どういうわけかこの3つが妙に好きで、描くものが決まらないときはいつもそれを描いていた。模型のパッケージの絵を参考にして描いていたと思う。汽車ならD-51、城は姫路城、軍艦は大和や赤城。どれも模型を持っていたから資料には困らない。どうしてこうしたものを描くのが好きだったんだろうと考えてみると、たぶんそれは「形が複雑だから」だったのかなと思う。汽車の車輪、城の屋根、船の艦上構造物。どれも複雑で、その線を一つ一つ描いていくのが楽しかった。その時の自分にとっては、絵を描くことは模型を組み立てることと感覚的に同じだったと思う。自動車とか飛行機とかはほとんど描くことがなかったけど、今その理由がわかった。形が単純すぎて「組立て甲斐がない」からだったんだ。

「たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ」坪内稔典のこの句を初めて聞いた時、言葉の意味はわからなかったものの、響きのの良さ、リズムの良さは強く印象に残った。たんぽぽの「ぽぽのあたり」とはどのあたりのことか、それが火事であるとはどういう意味なのか。全くわからないことだらけの句だけれど、言葉の意味を離れた所にこの句の良さはあるのだろう。「ぽぽ」というのはどこかの方言か古語なのかと思ったが、どうやらこれは作者の造語で特に意味はないらしい。初めから言葉遊びとして作られた句だったのだ。作者の遊び心が楽しい。ぽぽとは具体的にどのあたりだろうか。わた帽子のことだろうと言う人がいた。なるほど、確かに語感的にあのフワフワした感じに似合っている気はする。ちなみに、作者はもう一つぽぽの句を詠んでいる。「たんぽぽの ぽぽのその後 知りません」

新聞の投書に昔こんな話が載っていた。幼稚園くらいの子供が両親と一緒に空港へ行った。祖父母を見送るためだ。飛行機は飛び立ち、どんどん遠のいていく。それを見た子供がこう言った。「おじいちゃんたちが小さくなった」。▼小さくなっていく物体には、2つの可能性がある。1つは自分との距離が遠のいて行っている可能性で、もう1つはその場でサイズが小さくなっている可能性。子供は2番目の解釈をした。例えば丸いボールがあって、遠くへ行けば小さくなる。ところがある距離まで離れると、しぼんで小さくなっているのか遠のいて小さくなっているのか区別できなくなる。この区別できなくなる距離が子供の場合は大人よりも狭い。こうした空間認識能力の問題と、飛行機は縮まないという知識の欠如のせいで、子供が見た世界の中でおじいちゃん達は「小さく」なってしまったのだろう。

子供が怪我をしたときに、母親がチチンプイプイと言ったりする。これを言えば痛みが消える。そのように子供には思える。痛みはしばらくすれば勝手に消えるものだ。何もしなくても治るものに、母親が「痛いの痛いの飛んで行け」なんて巫女になっておまじないをする。すると、痛みが消えたのはおまじないをしてもらったからだという因果関係が子供の中で生まれる。時間の前後関係を因果関係と捉える。迷信というものが生まれるプロセスの一例だ。▼もっとも、現在の科学ではチチンプイプイで痛みが消えることをただの迷信であるとは言わない。なぜなら痛み(に限らず人間の感覚)というのは身体的・物理的な要因だけでなく心理的な要因も影響することがわかっているから。だから「心頭滅却すれば火もまた涼しい」し、ただの水でも薬だと言われて飲めば体調が良くなったりしてしまうのだ。

こんな笑い話がある。ある人が運転免許証を取りに行っていた時に、教習所の先生が「オーガタの人はこちらに来て下さい」と言った。その人は自分の血液型がO型だったので、そっちへ行ってしまった。オーガタとは「大型」免許のことなのに。▼まじないや占いにも様々なものがあるが、血液型占いほど日本人の心をとらえたものはないだろう。生まれつきの何かで性格や人生が決まってしまうという受動的で人任せな所が、日本人の気質に合っていたのかもしれない。このような迷信は雑談のネタとして使われる限りでは何の問題も無いが、時に度を超える場合がある。例えば昔、社員の仕事内容を血液型によって決めていた企業があった。あなたはA型だからこの仕事をやりなさい、というわけだ。ここまで来ると明らかに差別行為だが、上司は良かれと思ってやっているのだから実に始末に負えない。

「首の先には頭がある。手首なら手、足首なら足。ならば乳首の先にまだ見ぬおっぱいがあるのではないか?男が乳首を追い求めるのはその探求心ゆえの行動だ。」ネット上で見つけたいわゆるコピペ文。確かに、この中で乳首だけがその先に何もない。しかしよくよく考えてみれば、おっぱいを乳輪>乳首>乳頭という構造で捉えれば乳首の先には乳頭があることになる。するとこの説は成り立たないことになるが、これはロマンがないので黙っていよう。▼ところで「首」に関係する漢字は、その字源を考えるとけっこう怖いものがある。例えば「道」という漢字に首が含まれているが、これはなぜだろう。古代中国において討ち取った敵の首を道に並べたことが起源であるという説がある。また「県」という文字は首を上下さかさまにした形をしており、切った首を逆さまに吊り下げるという意だそうだ。

画家の安野光雅氏がソルボンヌの学生と話していた時のこと、「講義の時間だからそろそろ行かなきゃ」と学生が言った。安野氏が「勉強はimportant(重要)だからね」と言うと、その学生は「勉強はimportantではない、interest(面白い)だよ」と返したそうだ。▼非常に示唆的なエピソードだ。日本人にとって、勉強とは「重要だから」するものになっている。試験に必要だから、勉強する。学校教育の目的が、実質的に大学受験のためのものになっており、「面白いから」勉強するという面がほぼ抜け落ちてしまっているのだ。試験のためだけに勉強し、終われば全て忘れてしまう。これでは「勉強なんて役に立たない」と思われても仕方がないだろう。勉強へのこのような観念や諦観を取り除かない限り、表面的な学力向上策をいくら行ってもたいした効果はないだろう。

『時計めぐりヨーロッパの旅』という写真集を読んだ。教会、街路、宮殿や市庁舎など、ヨーロッパの様々な国の街中の時計を集めたものだ。大小様々な時計が載っていて面白い。ヨーロッパの特に財力のある都市にはたいてい大きな教会があるが、そこに付いている時計はやはり壮麗で見事だ。ドイツなどには仕掛け時計が多くあるそうだが、人形のたちの衣服や職業にそれぞれの街の歴史や文化が反映されているようで興味深い。時計と言えばビッグ・ベンのような大きな建築物が注目されがちだが、小さな教会の尖塔にさりげなく取り付けられた時計や、街角のアーチや店先に取り付けられた小さな時計などもまた情緒があっていい。ヨーロッパの国々にはそれぞれに歴史ある建築や町並みがあるが、時計もまたそれにマッチするような芸術的なデザインのものが多く、それが街の魅力を引き立てている。

「人はよく独創の話をしますが、生まれおちたときから、この世の影響をうけ、邂逅によってさらに生まれ変わらされたとすれば、独創とは一の空語にすぎますまい。大切なのは模倣です。邂逅の相手を模倣すること。」亀井勝一郎の言葉だ。▼何事につけ上達のための最も優れた方法は、良いものを模倣することだろう。自分自身を型にはめることが重要だ。ところが、芸術的分野においてはこの原則が忘れられていることが多い。個性こそが大事だから、人の真似はしたくない、と。しかし、こうした態度は上達の速度を低下させるだけではなく、真の意味での独自性の表出をも阻害してしまうのではないか。「独自性よりも正しくあることがより重要だ」とポール・グレアムは述べている。求めるべきは「個性」などではなく、自分のビジョンを最もよく実現するための「正しい答え」ではないだろうか。

カート・ヴォネガットの短篇集の序文に、大学で彼が教えた創作講座初級篇が載っている。私は小説を書かないが、これは小説以外の創作活動にも援用可能かもしれない。いくつか抜き出してコメントを付けてみる。▼「例えコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」生じた欠落を満たす過程が物語の基本構造で、全ての登場人物に何らかの内的動機付けを与えるべきということか。「なるべく結末近くから話を始めること」冒頭がつまらなくてもページをめくり続けてもらえるのは定評のある過去の名作だけだろう。クライマックスを冒頭に持ってくる手法はハリウッド映画でも基本のようだ。「ただ一人の読者を喜ばせるように書くこと。つまり、窓を開け放って世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう。」標的となる読者をよく想定して書くべし。

アフリカのある種族の人たちは、20歳前後になるとふっといなくなる人が多いらしく、そして1,2年くらいすると、またふらっと帰ってくる。それは神隠しだという話もあるが、そうではなく、人間には動く本能があって、その欲求が思春期くらいに一番強くなってきて衝動的に旅に出て行くということらしい。これは「テンベア」と呼ばれ、目的をもってどこかへ出かけるという意味の「サファリ」とは異なり、「あてもなく放浪する」ことを意味するそうだ。▼年頃になると家を出たくなるなんて、どこの国でも若者はみな同じような事を考えるものだ。大学受験の時、自分の家から通える大学があるのにわざわざ東京の大学へ行った友人がいたが、これも同じような事だろう。私は、自宅から通える大学へ進学したせいで欲求不満が溜まっているのかもしれない。時々、無性に放浪に出たくなるのだ。

書き言葉は基本的に標準語の世界で、生活の垢のようなものを持たない規格化された、その意味で死んだ言葉の世界だ。標準語というのは要するに近代化の必要の中で行われた言葉の効率化だ。しかし、場や空気を持たない言葉の不都合に耐えきれない時、書き言葉というのはどんどん話し言葉へと崩れて行く。▼メールというものが初めて登場した時、初めはそれを手紙のメタファーとしてとらえていたために、そこで書かれる言葉もまた手紙然としていた。しかし、じきにメールの言葉は話し言葉と変わらないものになった。今では話し言葉でメールを送るのは何の変哲もない事だが、「話すように書く」という事が初めは非常に新鮮な感覚をもたらしてくれたことを思い出す。少し大げさだが、かつての日本文学史における言文一致運動の時の新鮮な感覚を、自分の中で追体験できたような気がしたのだ。

方言には独特のニュアンスがあり、これは標準語では伝えられない。大阪弁には「ほたえる」という言葉があり、またそれとは少し意味の違う「いちびる」という言葉がある。どちらも標準語での「ふざける」という意味の言葉だが、これらを標準語に置き換えてしまっては伝えたい意味が伝わらない。今年の大河ドラマの龍馬伝ではナレーションが土佐弁だ。これがとても良くてテレビの無機質な画面にふっと時代の匂いのようなものが漂ってくる。その土地の言葉でやってくれた方が、わからない言葉があったとしてもそこから感じられる独特の情緒が面白いのだ。▼方言には標準語に翻訳できない部分があり、そこが大事な部分だったりする。方言は感情の微妙なディテールをうまく言い当てることができる。メディア上における標準語万能な現状は、日本語を貧しいものにしているのではないかと思う。

大河ドラマ「龍馬伝」を見た。非常に高揚感のある回。龍馬は知り合いのつてを頼りに、どうにか憧れの勝と対面することになる。その熱意と情熱に、胸を打たれる。会いたい人に会いに行くというシンプルな行動の大切さを実感する。ともすればオンラインメディアでのやりとりだけでコミュニケーションに満足してしまっていたかもしれない。これは反省しなければ。しかし、それに加えてもう一つ。勝は時の軍艦奉行であった。一方で龍馬は名もなき脱藩浪人である。常識的に考えて話をするなど出来るはずもないと思えるが、ドラマ内の龍馬はそうは考えなかった。考えなかったというよりは、考える以前に体が動いていた。そしてついに勝との対面を成しその後の展開につながって行くのである。▼普段身の程をわきまえすぎな自分としては、こうした姿に眩しさを感じずにはいられないのであった。

少し前にyoutubeがリニューアルされて、表示がずいぶんとシンプルになった。どういう意図なのか公式のアナウンスを見たわけではないので知らないが、おそらく見た目を単純にすることでユーザーフレンドリィな作りにしようとしたのだろう。ところが、このリニューアルに際しての私の印象は「わかりにくい」というものだった。動画以外の余計な要素を徹底して排したような作りになっているため、これまで表示されていた様々な情報が見えなくなってしまっている。細かい情報等はクリックすれば出るのだが、そのワンステップが煩わしい。無くても特に困らないだろうと思えた情報も、実際無くなってみると勝手の悪さを顕著に感じる。欲しいと思う情報が過不足なく存在することが重要で、多すぎてもいけないが少なすぎてもいけない。現在のyoutubeは少なすぎではないだろうか。

「僕は象を「可愛いと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。「雲 などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。」芥川龍之介は小学生の頃、可愛い物と美しい物を先生に書けと言われてそれぞれ象と雲を挙げたが、その答えは納得されなかったそうだ。先生としては大した考えもなくバツを付けたのだろうが、芥川 にとっては印象深い出来事だったのだろうことが窺われる。▼これは『追憶』の中の一エピソードであるが、私はこの話がやけに好きだ。おそらく、少し変わり者の少年芥川の姿に、自分自身を重ねているからだろうと思う。もし同じ場にいたら、きっと私も「×印」をもらうような答えを言っていただろうと思えてならないのだ。

テレビに上杉裕世さんというマットペインターの方が出ていた。様々なハリウッド映画で背景に使われる絵を描いている人だ。映画の中の非現実的な風景はCGで作られているように思われているが、実際のところ全てがCGというわけではなく、絵具で描かれた絵も随所に使われている。最終的に合成されて映画の中でその場面を見ると、まるで実写と区別がつかないから驚きだ。彼がアメリカで制作会社に採用される時のエピソードが面白い。学生時代に作った映像作品を見せたのだが、それは自作の特殊カメラを使い自分の絵を合成して原始時代のシーンを創り出した秀逸なものだった。それを見た面接担当者たちの言葉が”You’re crazy.”。最高の褒め言葉だったそうだ。▼「狂っている」と言われてしまうほど何かを追求できるということ。一流になる人とはそういう人なのだろう。

夜空はなぜ暗いのだろう。唐突な疑問ではあるが、実は宇宙の成り立ちを考える上で重要な意味を持つ興味深い問いだ。この問いから、宇宙の有限性が導かれる。どういうことか。もし仮に宇宙が無限であるとすると、星もまた無限に存在することになる。遠くの星ほど光の強さは距離の2乗に反比例して弱まるが、一方で星の存在数は距離の2乗に比例して増大する。結果的に両者の効果は相殺され、無限の彼方からも近い所からと同じだけの光が届く。もし宇宙が無限であったなら、夜空は大量の光で満たされるはずだ。しかし実際には、夜空は暗い。ここから、宇宙の広さは有限だという結論が得られる。▼この話はオルバースのパラドクスと呼ばれ、さらに考えを進めれば宇宙の膨張やその起源にまで話は行き着く。夜空の暗さという当たり前の事実から壮大な宇宙論にまでつながる素敵な話だと思う。

何かをを作り終わっていつも思うのは、自分がどうやってそれを作ったのか自分でもよくわからないということだ。手順はよく思い出せないけど、ともかく色々やっていたらいつの間にか出来ていたという感じである。例えば絵がそれだ。自分で描いたものであるにもかかわらず、どうやってそれを作り出したのかよくわからないし、同じものを再現できる自信がない。▼こうしたことはただ自分が未熟なだけだからだろうと思っていたが、案外世の中のモノというのは、どれもそのような感じなのかもしれない。飛行機がなぜ飛ぶのか、実はその理屈はまだ完全に解明されてはいない。一応理論はあるし、それを元に飛行機が発明されたが、のちにその理論は不正確であることが判明したのだ。にもかかわらず、現に飛行機は空を飛んでいる。そして、なぜそれが飛んでいるのか、正確には誰も知らないのだ。

やる気というのは気まぐれなもので、ある時急にやる気が出たかと思えば、いつのまにか消えてなくなっていたりする。この切り替わりはどう生じるのだろう。自分の場合、やる気が出てそのまま行動につながるような事態は外発的な動機付けに起因する場合が多い。外的な評価や視線が具体的に予見できると、早くその期待に応えようと奮起する。内発的な動機付けも重要ではあるが、短期的な「勢い」を生じさせるのはやはり外的要因であることが多い。人は基本的に怠け者なので、ただ「興味がある」というだけではなかなか行動まで移らない。こうした意味で、やる気というのは社会的なものだ。▼だから、やる気が出ないときは人と話すのが良いのかもしれない。twitterで「やる気でない」というつぶやきをよく見かけるのも、みんなそのことを無意識的に知っているからではないかと思う。

文章を推敲していて思った。この作業は、絵を描くときのそれと非常に似ている。句読点を付けたり外したりその位置を変えたりという一見些細な―しかしそれによって読みやすさが大きく左右されるような―文章の微修正作業というのは、絵を描くときに目の形や大きさ・位置を細かく調整して行く作業と、とてもよく似ている。絵、特にキャラクターイラストで最も重要な要素の一つは何かというと、それは目だ。髪のラインが数ピクセル変化したとしても絵に大した違いは出ないが、目のラインは1ピクセル変化しただけでも表情の違い、印象の違いとして知覚される。だから、ほんの小さな違いをめぐって延々とアイラインの微調整を行うことになるのだ。▼絵においてその印象を決定づける最も重要な要素が目であるなら、文章における「目」は何だろう。フォントや見出しがそれではないかと思う。

作家の井上ひさし氏が亡くなった。『吉里吉里人』は強く印象に残っている。日本の東北のある小さな村が独立を宣言し、それを阻止しようとする日本政府との攻防を描いた小説だ。一見突飛なストーリーだが、それを可能とするための様々な策が具体的に示されていく。これならひょっとすると現実の日本で実際に遂行可能なのではないかと思えるようなリアリティがあり、小説というよりドキュメンタリィを見ている気分になる。▼登場する村人たちが身内同士であるいは外部の人と様々な議論や交渉をかわす際に東北弁を用いていたことが、妙に面白い。例えるなら新聞や教科書が方言で書かれているようなもので、その異化効果にグッとくる。この小説の面白さは、ストーリーもさることながら、村人たちの使う生きた言葉、日本語の奥深さであり、そこから示唆される国語論・方言論であったと思う。